2013年 10月 08日
ウッドワンコレクション |
先日の事、機会がありウッドワンコレクションを観覧。中でも強く印象に残ったのが橋本関雪の「片岡山のほとり」。六曲一双の屏風仕立ての素晴らしい傑作でした。
私如きが解説をするのはおこがましいのですが、この絵は聖徳太子の「片岡山飢人御慰問」に題材を採った傑作であります。『日本書紀』の推古天皇21年(613年)、聖徳太子は、片岡山のほとりに住む道人を訪ねるためにこの地を通りかかった時、瀕死の旅人を見つけました。哀れに思った太子は衣食を与えて介抱しましたが、旅人は翌日亡くなってしまいました。太子は大いに悲しまれ、その場に手厚く葬りましたが、数日後、不思議なことにその亡骸は消えてしまい、太子が与えた着物のみが残されていました。太子は大いに驚き、これは達磨の化身であったかと墓を作り、達磨塚と呼んで供養したのが達磨寺の起源であるとされています。
右双に描かれた聖徳太子と従者の一行、左双には達磨大師の化身の行者只一人が描かれ、互いに視線を交わしながら一言も発していない、緊迫した場面が描かれています。わたし橋本関雪は猿の絵くらいしか知りませんでしたが、これは素晴らしい作品で、思わず数十分ほど見とれてしまいました。。
橋本関雪は竹内栖鳳の弟子ですが、竹内栖鳳の門下には上村松園、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨らの俊英が居て、師との関係は必ずしも上手く行っていなかった様です。しかし閑雪が東京に居を移し京都画壇と距離を取ったことで、一応の決着を見た様です。そういえば北大路魯山人も竹内栖鳳に大きな影響を受けた一人です。当時の竹内栖鳳の存在というものが関西芸術界に与えた影響の大きさと言う事を感じます。
ウッドワン美術館のコレクション自体は、私は総花的であまり魅力を感じませんでした。正直言って、美術愛好家がその生涯を掛けて収集したような気迫を持てませんでしたし、有り体に言って金にあかせて色々買いまくったみたいな印象です。しかし、村山隗多あり長谷川利行ありゴッホありのコレクションには確かに見事な作品もあり、下手な鉄砲数打ちぁ当たる、みたいな印象でした。どうもすいません。
私如きが解説をするのはおこがましいのですが、この絵は聖徳太子の「片岡山飢人御慰問」に題材を採った傑作であります。『日本書紀』の推古天皇21年(613年)、聖徳太子は、片岡山のほとりに住む道人を訪ねるためにこの地を通りかかった時、瀕死の旅人を見つけました。哀れに思った太子は衣食を与えて介抱しましたが、旅人は翌日亡くなってしまいました。太子は大いに悲しまれ、その場に手厚く葬りましたが、数日後、不思議なことにその亡骸は消えてしまい、太子が与えた着物のみが残されていました。太子は大いに驚き、これは達磨の化身であったかと墓を作り、達磨塚と呼んで供養したのが達磨寺の起源であるとされています。
右双に描かれた聖徳太子と従者の一行、左双には達磨大師の化身の行者只一人が描かれ、互いに視線を交わしながら一言も発していない、緊迫した場面が描かれています。わたし橋本関雪は猿の絵くらいしか知りませんでしたが、これは素晴らしい作品で、思わず数十分ほど見とれてしまいました。。
橋本関雪は竹内栖鳳の弟子ですが、竹内栖鳳の門下には上村松園、土田麦僊、小野竹喬、池田遙邨らの俊英が居て、師との関係は必ずしも上手く行っていなかった様です。しかし閑雪が東京に居を移し京都画壇と距離を取ったことで、一応の決着を見た様です。そういえば北大路魯山人も竹内栖鳳に大きな影響を受けた一人です。当時の竹内栖鳳の存在というものが関西芸術界に与えた影響の大きさと言う事を感じます。
ウッドワン美術館のコレクション自体は、私は総花的であまり魅力を感じませんでした。正直言って、美術愛好家がその生涯を掛けて収集したような気迫を持てませんでしたし、有り体に言って金にあかせて色々買いまくったみたいな印象です。しかし、村山隗多あり長谷川利行ありゴッホありのコレクションには確かに見事な作品もあり、下手な鉄砲数打ちぁ当たる、みたいな印象でした。どうもすいません。
by speedshopfalcon
| 2013-10-08 21:19
| 日常