バッハのマタイ受難曲の第39曲はアルトのアリア。もの悲しい独奏ヴァイオリンのオブリガートが延々と続き、独唱アルトがそれを受けて、これまたもの悲しいアリア「憐れみたまえ我が神よ、愛ゆえに救い主は死にたまわんとす」を歌います。
このヴァイオリンパートはコンサートマスターのオーディションではシェエラザードなんかと一緒で必ず出される曲なんだそうですが、このバッハの名曲中の名曲マタイ受難曲には、背筋が寒くなるようなライブ録音が存在します。それが、1939年4月2日、ウイリエム・メンゲルベルグ指揮アムステルダムコンセルトヘボウ管弦楽団の実況録音です。ナクソス等から出ているのでアマゾンで買うことが出来ます。youtubeには乗っていない様ですが、別の演奏者の演奏ならば聞くことが出来ます。Matthäus Passion Erbarme dich で検索して見て下さい。
ナチスドイツの侵攻の前に、最早陥落が避けられなくなったオランダアムステルダムでの歴史的な実況録音です。アムステルダム陥落前夜に演奏会を行うというのも凄い事ですが、その演奏会の選曲がマタイというのも凄い。死を覚悟したかのような恐ろしい選曲と言えます。この時の指揮者ウィリエム・メンゲルベルグは作曲家グスタフ・マーラーの高弟であり大指揮者として歴史に名を残しています。マーラーの弟子で名を残したのはメンゲルベルグの他、オットー・クレンペラー、ブルーノ・ワルターがいますがいずれもユダヤ人であり後に師匠マーラーの交響曲の録音を残しています。
この歴史的録音に刻まれたノイズの中から聞こえる音は、十字架に架けられるイエスキリストの運命と祖国オランダ、そして自分達の運命を重ね合わせるような、まさに一期一会の演奏です。そして、第39曲のアリアの途中で、後ろの合唱団が堪えきれずに泣き出す声が録音にはっきりと残っています。機会があれば一度聴いてみて下さい。芸術というものを信じる事が出来た時代の非常に貴重な記録です。